Published by sonswo on 2017年11月1日

sons wo: を終わらせるために

sons wo: は2008年に設立しました。ちょうど10年が経ちますが、このたびsons wo: を終わらせることにしました。理由は大きく2つあります。

まず、sons wo: の意味、実はこれはあまりまとめて発表していないのですが、「sons」は英語の「息子」を、「wo:」は無意味さを、それぞれ表していました。息子というのは無責任です。無責任さと無意味さを背負って、sons wo: は私にとっては実験場でした。固定の方法論を用いず、その時々の興味に従って作品を制作し、終わったらそれきりになる。実体をもたず、連続性もない。それがsons wo: の意味するものでした。

sons wo: を始めたのが20歳のときでしたので、最後の公演の始まる頃には私は30歳になっているわけですが、最近、だんだん自分の演劇というものが実体としてあるのかもしれないというような、これがもしかしたら自分の演劇なのかもしれないというような、そんな気がしてきました。今までそういうものなく演劇をやっていたのかと言われるかもしれないのですが実感としてこれは事実です。私はこれまで基本的に生理に従って、そのときやってくるものを演劇作品にする感覚でやってきました。食べたいものを食べていたので、「これが自分の料理だ」という感覚はなかった。しかしこれがもしかしたら、自分の演劇、自分の料理、メニューに出せるものなのでは? という感じが、近頃なんだかはっきりと出てきた。いわば自我が芽生えたのです、いまさら。そうしてその、「自分の演劇」をやるということには、どうしても責任が生じます。この「責任」というのは、他者の期待に応えるだとか、影響を与えるだとか、そういうことではなく、何かを「残す」というような意味での責任です。最初のうちは残すような気持ちはなかった。しかし、何かを残さねばならない、きっとそれがそろそろ、可能だろう。そんな感覚が最近はあるのです。そうしてそれは悪いことではないだろう。だからsons wo: は終わりにしようと思いました。

もうひとつの理由として、形態の問題があります。これまでのsons wo: はすべて私が中心にいて、私がすべてを判断していました。しかし私はどうも「ある重さをもったまとまり」を作ることが単純に苦手です。私の作るものはいつも軽く、とっちらかっている。これから何かの形を残していくとして、それはきっと私がただ中心でやっている限りは、おそらくうまくいかないだろう。今までと違う形で他の人の手を借りたい。しかしいわゆる劇団でも共同制作でもない、また違ったありかたで、集団が機能して欲しい(なぜなら、そういった劇団とやらを、やるのも私はきっと不得意だから)。今まで演劇を通じて人間を扱ってきたことが、この集団でなにかをやっていくことに活かせると思うのですが、いずれにせよ、そうして機能させたものを「sons wo:」と呼ぶのは抵抗がありました。おそらくそれはまた違う名前をしているのだと思います。

だから「sons wo:」は終わりです。解散とか消滅とか、他の言葉も考えたのですが、ある時期が終わるみたいに、ただ、「終わる」、そんな風に思います。

最後の公演は2018年の2月に予定しています。もしかしたら今後のありようのさきがけが、そこに含まれてくるかもしれません。ご期待ください。くださいますと幸いです。

2017.11.1 カゲヤマ気象台